自由を生きるために、この人生だったのかもしれない。
ある朝、私は自分でも驚くくらい怒っていた。
「なんで、また?」
「どうして私ばかり?」
そんな言葉が心の中を何度も行き来していた。
きっかけは、本当に小さな出来事だった。
家族との何気ないやり取りが重なり、気づけばゴミ収集車は通り過ぎていた。
その瞬間、私の中で何かが切れた。
でも、しばらくすると気づいた。
私を苦しめていたのは、その出来事だけじゃない。
怒りの奥には、ずっと積み重なってきた「またか」という諦めがあった。
その日、私は衝動的に「カサンドラ症候群」と検索していた。
以前耳にしたことがあった言葉。
発達特性についての記事も読み始めた。
「当てはまるかもしれない。」
そう思う自分がいた。
でも同時に、
「そんなふうに決めつけたいわけじゃない。」
そんな気持ちもあった。
読み進めながら、ふと手が止まった。
「あれ……私は何を知りたかったんだろう。」
私は誰かの記事を読みたかったわけじゃない。
私は、自分の人生を知りたかったんだ。
私は何に苦しみ、何を繰り返し、何を学ぼうとしているんだろう。
そんな問いが、静かに浮かんできた。
そこから、過去の景色が一気によみがえった。
両親の離婚。
我慢を重ねていた母。
自分の思うままに生きているように見えた父。
祖母が私にかけてくれた言葉。
一つひとつは別々の思い出だったはずなのに、その日は一本の線でつながっていくようだった。
そして、不思議なくらい自然に、一つの言葉が心に降りてきた。
「私は、自由を生きるために、この人生を歩いているのかもしれない。」
これまで私は、「自由」という言葉に少し苦手意識があった。
自由に見える人を見ては、自分勝手だと感じることもあった。
誰かに合わせること。
空気を読むこと。
自分より相手を優先すること。
それが当たり前になっていた私には、「自由」はどこか遠い世界の話だった。
でも、もしかしたら。
私は自由すぎる人たちを責めるためではなく、
「あなたも自由に生きていい。」
そのことを、自分自身に教えるために、この人生を歩いているのかもしれない。
もちろん、そう気づいたからといって、すぐに苦しさが消えるわけじゃない。
怒りもある。
悲しさもある。
納得できない日だって、きっとまたある。
それでも、一つだけ変わったことがある。
私は、出来事の意味を探せるようになった。
人生に起きる出来事は変えられなくても、その出来事をどう受け止めるかは、少しずつ育てていける。
だから私は、「自由」を練習してみようと思う。
食べたいものを選ぶ。
好きと言ってみる。
嫌だと言ってみる。
自分のために時間やお金を使ってみる。
そんな小さな自由を、一つずつ。
自由は、いきなり手に入るものじゃない。
きっと、小さな選択の積み重ねなんだと思う。
もし今、あなたも誰かのために頑張り続けているなら。
少しだけ立ち止まって、自分に問いかけてみてほしい。
「私は、本当はどう生きたい?」
その答えは、誰かの記事の中ではなく、あなた自身の心の中にあるのかもしれない。