思考エッセイ#001

自由を生きるために、この人生だったのかもしれない。


ある朝、私は自分でも驚くくらい怒っていた。


「なんで、また?」


「どうして私ばかり?」


そんな言葉が心の中を何度も行き来していた。


きっかけは、本当に小さな出来事だった。


家族との何気ないやり取りが重なり、気づけばゴミ収集車は通り過ぎていた。


その瞬間、私の中で何かが切れた。


でも、しばらくすると気づいた。


私を苦しめていたのは、その出来事だけじゃない。


怒りの奥には、ずっと積み重なってきた「またか」という諦めがあった。


その日、私は衝動的に「カサンドラ症候群」と検索していた。


以前耳にしたことがあった言葉。


発達特性についての記事も読み始めた。


「当てはまるかもしれない。」


そう思う自分がいた。


でも同時に、


「そんなふうに決めつけたいわけじゃない。」


そんな気持ちもあった。


読み進めながら、ふと手が止まった。


「あれ……私は何を知りたかったんだろう。」


私は誰かの記事を読みたかったわけじゃない。


私は、自分の人生を知りたかったんだ。


私は何に苦しみ、何を繰り返し、何を学ぼうとしているんだろう。


そんな問いが、静かに浮かんできた。


そこから、過去の景色が一気によみがえった。


両親の離婚。


我慢を重ねていた母。


自分の思うままに生きているように見えた父。


祖母が私にかけてくれた言葉。


一つひとつは別々の思い出だったはずなのに、その日は一本の線でつながっていくようだった。


そして、不思議なくらい自然に、一つの言葉が心に降りてきた。


「私は、自由を生きるために、この人生を歩いているのかもしれない。」


これまで私は、「自由」という言葉に少し苦手意識があった。


自由に見える人を見ては、自分勝手だと感じることもあった。


誰かに合わせること。


空気を読むこと。


自分より相手を優先すること。


それが当たり前になっていた私には、「自由」はどこか遠い世界の話だった。


でも、もしかしたら。


私は自由すぎる人たちを責めるためではなく、


「あなたも自由に生きていい。」


そのことを、自分自身に教えるために、この人生を歩いているのかもしれない。


もちろん、そう気づいたからといって、すぐに苦しさが消えるわけじゃない。


怒りもある。


悲しさもある。


納得できない日だって、きっとまたある。


それでも、一つだけ変わったことがある。


私は、出来事の意味を探せるようになった。


人生に起きる出来事は変えられなくても、その出来事をどう受け止めるかは、少しずつ育てていける。


だから私は、「自由」を練習してみようと思う。


食べたいものを選ぶ。


好きと言ってみる。


嫌だと言ってみる。


自分のために時間やお金を使ってみる。


そんな小さな自由を、一つずつ。


自由は、いきなり手に入るものじゃない。


きっと、小さな選択の積み重ねなんだと思う。


もし今、あなたも誰かのために頑張り続けているなら。


少しだけ立ち止まって、自分に問いかけてみてほしい。


「私は、本当はどう生きたい?」


その答えは、誰かの記事の中ではなく、あなた自身の心の中にあるのかもしれない。



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